通り過ぎたカマキリの行く末と、助けたバッタの行く末

こんにちは。



今日綴るのは、私の自己中心的な行動と思いが明らかになった、虫達との出来事です。



少し前、家の近くの道を歩いていると、大きくて立派なカマキリがいました。カマキリは堂々と道路を歩いています。


(うわぁ立派なカマキリだなぁ。)


足を止めて見るほど大きく、悠然とした姿。何だか嬉しい氣分でカマキリの横を通り過ぎました。



用を済ませて戻って来た時、

そのカマキリは車にひかれていました。


私は、


(あの時、私がカマキリを道の端の方に移動させてあげていたら、このカマキリはもう少し長く生きたかもしれないな…。)


そんなことを思い、葉っぱをそっとかけました。


それから、明らかに踏まれそうなところにいる虫を草むらなどに移動させることにしました。


これでひかれずに、命を全う出来る

(良かった。)



しばらくたったある日。



公園の駐車場に小さなバッタがいるのを子どもが見つけました。 


私はバッタを草むらの人や車に踏まれない方へ逃がすよう、子どもに伝えました。


「うん!」と子どもはバッタを手に乗せて草むらへ。


バッタは手からぴょんと飛んで、地面へ。


バッタの姿を追って子どもが足元を見て少しよろけた瞬間。


バッタは子どもの靴の下・・に。


あ、・・・。



カマキリの時同様、落胆した私は氣がついたのです。


カマキリやバッタは(虫は皆)自分で好きなところへ行くことができます。


ひかれたカマキリはもしかすると、一生に一度の大冒険‼

何があっても悔いはない‼

と覚悟を決め、普段出ない道路を歩き、氣持ちは満たされて最期を迎えたかもしれない。


バッタも、自分の意思で駐車場にいて、そこにいたかったかもしれない。


虫達がいつ、どこで一生を終えるかは、私が手を出すことではないのです。


ひかれたカマキリを見て勝手に「かわいそう」と思い、虫達の行く先を操作していた私の身勝手な行為。


「助けられなかった」という罪悪感を解消するため、虫の居場所を変えて、良いことをしたと思い込む勘違い。


ただの自己満足でしかなく、ありがた迷惑な話です。


「助ける」=「善」

「見過ごす」=「悪」


「長生き」=喜

「短命」=悲


どこかでそう思っていたことに氣づかされました。


(あぁ、間違っていたな。)


天に召されたバッタを土に埋めながら、

自分の勝手な思い込みと自己満足の押しつけを、虫だけでなく、人にも・・。

(していた・・・。)



貴重な氣づきを教えてくれた虫達に感謝

しながら、

道のカマキリに「おはよう」と声をかけるのでした。